
未来は見えないから面白い。
というのは分かっていても、
計画を立てて自分の思う通りに、自分の人生を動かそうとする人々がいます。
ましてや、自分の子供にまで。
流れに沿ってみてはどうだろうか?
流れに沿うという言葉にちなんでこんな経験を少し話そうと思います。
ヒマラヤにいるときに、目が見えなくなったことがあって、
小さな村の人々がおはようと言ってくれるのですが、
誰か見分けることができないので、
鼻がつくほどの距離まで近づいてもらって皆と挨拶をしていました。
その場所は、観光客が少なく、
1つ山を超えるとシャーマンがいるからそこへ行こうと、
シェルパのおばあさんが励ましてくれました。
結局死ぬことなく今この文章を書いている訳ですが、
人生とは何が起こるか分からないものです。
見えるように努力をしたところで、
そして計画を立ててそれを実行しても自分を信じたところで視力は戻らない。
すべきことは、川の流れに沿って山を降りることでした。
これ以上 上に登っても8000mを超える山々は目ではもう見えなかったが、
髪の毛が凍って白くなる中、
神々しくも感じる朝の日差しが私を温めてくれました。
シェルパのおばあさんも同じく、母のように美味しいスープを作ってくれたおかげで山を下る元気が出ました。
人と心で触れあう瞬間は、まさに "時" が選んでいる気がします。
私は、いつもふとした場所でふとした時期に出会う人々と
いつも何かしら話をします。
その話の面白いこと。
お互い違う国で、違う習慣、言語を持ち育ってきて、ある日突然出会い、話をして、理解をする。この感覚は信じられないほど爽快で心地がよく、まるで古くからの同胞に出会ったよう。
人間の持つ時間の概念は人間関係を複雑なものにすることがあるけれど、
もっとシンプルに人と向かい合うことは、
その人の素の部分を垣間見ることのできる貴重な時。
紀元前65年に生まれたとされるHoratiusはこんな言葉を述べている。
正しく生活すべき時期を先延ばしする人は、
川の流れが止まるのを待つようなものだ。
川は永遠に淡々と流れていく。
未来がどうなるか、あれこれ詮索するをやめよ。
しかして、時がもたらすものが何であれ、贈り物として受けよ。
私たちはいつも良い方向にしか進まない。
様々な人のいろんな性格や思考が交差する社会で、人生の基盤がない人たちはいつも迷う。何をしていいか分からないまま毎日がすぎていくことも。
そして、混乱している人は、社会で、会社で他の人を傷つけたり、蹴り落としてまでも進んでいくのだろう。
それでも私は良い方向にしか進まないことを今までみてきました。
そのためには誰が何を言おうとあなたの人生はあなたの人生なのだから、
自分の心に従ってやりたいことをはじめることが大切になってきます。
それを言葉で言うのはとても簡単、
"はじめの一歩を踏み出す" 。
ヨガだって、始めなければ柔軟性は変わらないけれど、
始めると、
時がきて、
柔軟性を気にしていたことすら忘れてしまう。
物事を始めるのに遅いことはない。
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